小島慶子が考える:「女子アナ」が死語になれば、日本が変わる
あなたは「女子アナ」にどんな印象を持っていますか。アナウンサーとして働く女性たちは、性格が良さそうでしょうか、悪そうでしょうか。頭が良さそうですか、悪そうですか。友達になりたいですか。仲良くなれそうですか。
華やかな印象のある職業ですが、アナウンサーも一人の働く人間です。安心して働き続けたいという素朴な願いは、他の仕事をしている人と何ら変わりはありません。マイクの前で持続可能な働き方を希求し、個人的な幸せを願う一人の人間なのです。
女性アナたちは多くの人が期待するようなドロドロの陰謀と危険な駆け引きに満ち満ちたドラマチックな日常を生きているのではなく、地道な努力で信用を築き、偶然の巡り合わせでチャンスを得たり逃したり、喜んだり落ち込んだりしています。頑張ったのに報われないことも、勝手なことを言われて悩むこともあります。多くの人と同じようにです。
ジェンダー平等、DEI、発達障害、子育て、夫婦関係などについて多くの連載や著書があり、メディア出演や講演活動を通じて言論活動を行っているエッセイストの小島慶子が、現在起きている社会事象について、実体験を通じて独自の視点で考えるコラムを配信。時事問題だけでなく、長い時間軸で捉えた社会のあり方やこれからの幸福論、近況なども綴ります。
女性嫌悪の依代(よりしろ)として
以前書いたように、日本では女性は30代以降、テレビ画面から急速に姿を消してしまいます。年齢とともに起用されなくなるのです。アナウンサーとして働く女性たちは、その現実を前に不安に苛まれ、キャリア設計に悩んでいます。多くは、非正規雇用やフリーランスで働く人たちです。出演業務だけで生計を立てるのが難しい人もいます。同じアナウンサーでも正社員とそうでない人とでは待遇が大きく異なり、明るい画面の中にも他の業界と同じような構造的な格差の問題があります。
世間から注目される一方で、女性アナは嫌な女の代表格のように思われています。どうやら世間さまは「女子アナ」を信用していないようです。目立つ女には裏があるものだ、と。それは女性アナたちの実態ではなく、「女子アナ」を好きになれない人たちの頭の中に棲みついた、「女」なるものの姿です。「女子アナ」という商品は、人々の骨の髄まで染み通ったミソジニー(女性嫌悪)を投影するのにぴったりの依代(よりしろ)なのです。

あなたも見覚えがありませんか。女性が業績を上げると「きっと女を使って上手くやったんだ」と陰口をいう。女性が上司の信用を得ると「媚を売っている」と眉を顰める。女性が人望を集めると「アイドル気取りの勘違い」と批判する。どんな職場でもよくあることです。その女嫌いは、いったいどこからやってきたのでしょう?いつ、どこで、何によって学習してしまったのでしょう。なぜ、女は嘘つきで軽薄で信用ならない生き物だと信じられているのでしょうか。子供の頃のテレビや漫画、今はネットでも、そんなイメージを繰り返し学習してきたはずです。人は学校で学ぶだけではありません。日常的に接しているメディアこそが、最も身近な教育者であると言えるでしょう。
岩盤社会の鬱屈の向かう先は
大手放送局の女性アナは、既得権益のマスコット的な存在とみなされてきました。男性優位、学歴重視、正社員優遇の日本社会で、テレビ局の幹部の大部分は高学歴男性です。男性の中でも特権的な立場にいる彼らの庇護のもと、女性アナはおじさんの覚えめでたき可愛い女を演じることで、安定雇用と高収入を手にしているように見えます。私も局アナとして働き始めて程なくしてそのことに気がつきました。既存の構造に異を唱えず可愛いマスコットを演じれば仕事の評価につながるけれど、結果として男尊女卑を強化し、社会の「あるべき女性像」の再生産に加担してしまうことになる。でもそれ以外に自分がここで生き残る方法はないように思える。これは構造的な女性搾取だと思いました。待遇面では恵まれていたけれど、それと引き換えに働く人としての尊厳や放送人としての社会的責任を売り渡しているような苦痛を感じたのです。
女性アナは、男性からは性別でゲタを履いた勝ち組とみなされ、女性からは女の評判を落とす「男社会の共犯者」とみなされることがあります。いくら努力しても報われない世の中で、権力者に媚びて甘い汁を吸っているずるい女たちだ、と。ゴシップメディアも繰り返し、鼻持ちならない「女子アナ」像を描いてきました。
思うに、これは「”おじさん”支配」への恨みが転嫁されたものではないでしょうか。どうにも動かしようのない岩盤勝ち組男性が支配する社会で、人々のやり場のない鬱屈は支配層の男性に向かうのではなく、彼らに媚びているように見える女性たちに向かう。もしあなたが「女子アナ」を好きになれないなら、それは流動性が低く、選択肢が少なく、上の言うことを聞くしかなく、失敗したらやり直しのきかないこの日本社会に絶望しているからかもしれません。既存の権力構造を恨みながら、それに媚びて同化することでしか生き延びられない惨めさを誰もが味わっているからこそ、その象徴のような女性アナ、しかも人よりも恵まれた立場を手に入れているように見える「女子アナ」に苛立つのでしょう。

テレビに出ているのを見るだけで苦痛
随分前のことですが、SNS上で匿名の女性から「私は昔、テレビの中の小島さんにいじめられた」と言われたことがあります。つまり、私がテレビ画面に映っているのを見ると、いじめられたような気持ちになったと。もちろん会ったこともない人です。でも「あなたがそう感じたならごめんなさい」と謝りました。その人は、「局アナはテレビ局の男社会に適応して特権に与る女たちであり、男性優位社会を肯定している。そんな女性がテレビに出てくるたびに、自分が踏み躙られたような気持ちになった」と言いたいようでした。
カメラの前の私からは、テレビを見ているその人の姿は見えません。でも構造的な問題はよく理解できました。アナウンサーだった当時、私は画面上で都合のいい女をやらないようにかなり身を削りましたが、そんな努力は見ている人は気づきません。それに正社員として守られた立場でした。正社員であることだけをもって「組織の雌犬」と決めつけるのは短絡的ですが、雇用形態が事実上の身分制度になっている日本では、正社員は特権を手にした強者です。当時も今も多くの女性が非正規雇用で働いています。局アナが画面に映っているだけで、テレビの前のその人が苦しい気持ちになったことはあっただろうと思いました。セクハラされても容姿を揶揄されてもニコニコと要領よく振る舞う女性アナたちを見て、こんなふうに振る舞わなければ女性は生き残れないのかと、社会の歪みを思い知らされるような気持ちにもなっただろうと思います。それで、たまたまSNSで繋がった元アナウンサーに「女子アナ」なるものへの怨嗟と批判をぶつけたくなったのでしょう。彼女のコメントを見て、当惑と同時に、共感を覚えました。私自身も「女子アナ」という呼称と役割、それを強いる構造、そしてそれを好んで消費する世の中が大嫌いだったから。
女性の仕事が正当に評価されないのも、ジェンダー格差が軽視されるのも、セクハラや性暴力の被害者が信用されないのも、女性蔑視や男性中心の考え方が根強く残っていることが要因です。日本では、女性は男村の上層部にちらほら混ぜてもらえるだけで、さまざまな女性たちの意見が反映される機会がほとんどありません。そのちらほらと混ぜてもらえる女たちの中で、最も軽薄で高慢に見えるのが、「女子アナ」と呼ばれる女性アナたちなのでしょう。日本で生きる女性の多くが、過剰適応の哀しみを経験しているはずです。なぜ、女性は生き延びるために「男社会に物申しません」という踏み絵を踏まされねばならないのかと、悔しい思いをした人はたくさんいるでしょう。踏み絵を踏んだ女性たちを責めても、世の中は変わりません。女性に踏み絵を踏ませている人たちに、意思決定の場から去ってもらうことが肝心です。
まずは「女子アナ」を死語に
「女子アナ」なるものは、同質性の高い男性たちが全てを決める今の社会が変わらない限り、なくならないでしょう。「女子アナ」が存在する限り、男尊女卑社会は安泰です。だからまずは、アナウンサーとして働いている女性を「女子アナ」と呼ぶのをやめることから始めましょう。メインの熟年男性とアシスタントの若い女性という組み合わせがいかに多いか、意識して画面を見るようにする。なぜおじさんは何十年も司会をしているのに女性アナだけが頻繁に交代するのか。なぜシワや白髪やたるみのあるしゃがれ声の女性キャスターがいないのか。なぜこれまで何の疑問もなく「女子アナ」という商品が消費され続けてきたのか、考えてみて下さい。身の回りの人が「女子アナが…」と言ったら、さりげなく「女性アナ」「〇〇さん」と言い換えるだけでも、世の中は変わります。半径2メートルで無理なくできることを続ければ、変化は必ず起きるのです。

今日からできることは、案外たくさんあります。若い女性が中年男性に可愛がられて「いいとこ取り」のように見えたら、女性に問題があると考えるのではなく、そのような役割が若い女性に割り当てられているのはなぜかを考える。女性を褒めるときに性的魅力や容姿や年齢を取り沙汰しない。中年以上の女性が人前に出ることをみっともないとか見苦しいとか言わない。経営者や政治家に女性がほとんどいないのは「ふつう」ではなく、異常な状態であると認識する。最低でも3割、当然5割いていいはずなのです。年齢や容姿で自虐をしない。歳をとるのは生きている証拠と知る。女性を性的お供物のように扱わない。なんでも性的関心に結びつけない。男性の両側に若い女性が座っているのを見て「女子に挟まれていいですね!」とか言わない。とにかく若い女性がそばにいれば男性は性的関心を示して喜ぶだろう、という思い込みを捨てる。はっきり意思表示をする女性に「きつい、怖い、生意気」と言わない。主導的な立場の女性に「男まさり、女だてら」と言わない。女性が男性や目上の人に対して意見を表明したら、脊髄反射で「感情的!ヒステリック!」とパニックにならずに、話の中身をちゃんと聞く。女性が成果をあげた際に、女性だから得をしたのではないかと疑う習慣を捨てる。女性を性別ではなく人として見る。女性は性欲の捌け口ではなく、自分と同じように喜怒哀楽があり複雑な思考を巡らせる人間であると認識する。ジェンダー格差を放置することは深刻な人権侵害であると肝に銘じる。女性の発言を軽んじない。あなたがどんなジェンダーでも。
画面の中にいる人は、商品ではありません。生身の体で一回きりの人生を生きています。誰だってそうですよね。人をモノのように扱う社会が変わりますように。それを当たり前だと思っている人たちが、どうか1日も早く意思決定の場からいなくなりますように。「下の人間は身の程を弁えて黙っていろ。そして上の人間の機嫌を取れ」と考える人たちが世の中の全てを決める時代を、もう終わりにしたい。だから大真面目に提案します。「女子アナ」が死語になれば、きっと岩盤を動かすことができるでしょう。
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